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2014年06月19日
河野談話を取り消せ
河野談話を検証するなら談話を取り消せ
何と極端な見出しであることか。6月17日の朝鮮日報の社説だ。
もうこれは脅迫である。竹島問題でもそうだ。わが国政府は国際司法裁判所で解決しようと持ちかけているようだけど、韓国政府はそれに応じない。韓国人が盗難した文化財の返還問題然り、日本海呼称問題、伊藤博文テロリストの顕彰、日韓基本条約を無視する戦時徴用工個人の賠償請求権判決、他国における我が国に対する誹謗中傷、再三の呼びかけにも応じない首脳会談の拒否と外交的侮辱、徹底した反日教育...
はっきり言って事実上、日韓の政府間の外交は断絶している。政府は、河野談話の検証を公表した後、いわゆる従軍慰安婦問題についての検証を始めるべきである。北朝鮮による拉致問題のごとく、筋を曲げることなく真実を求め、国家として筋を通していくべきである。日本という国は、正義を重んじ、決して理不尽なことには屈しない、さすがの国であるべきだ。
そういえば、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本は人種的差別撤廃を主張したっけ。
当時、この提案は日本を含んだ海外でも報道され、様々な反響を呼んだ。西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人やアイルランド人などから感謝の言葉を受けた。米国内からも、全米黒人地位向上協会(NAACP)が感謝のコメントを発表している。しかし、1919年(大正8年)4月11日夜の国際連盟委員会最終会合において、議長を務めたウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領等によって、この提案は葬られてしまった。その後、国連総会がこの問題について、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」の名で採択したのは、1965年12月のことであった。
蛇足ではあるが、その前年の1964年に南アのネルソン・マンデラは、アパルトヘイト政策を採る白人政府によって、国家反逆罪で終身刑の判決を受けている。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放され、翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラーク(白人大統領)と共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国大統領に就任。まだまだ、いろんなところで人種差別撤廃の戦いは起こっているのだ。
何と極端な見出しであることか。6月17日の朝鮮日報の社説だ。
安倍内閣が河野談話作成過程における外交交渉の内容まで自分勝手に解釈し、その結果を一方的に公表するのであれば、韓日間の外交関係について事実上の断絶を宣言するようなものだ。今回の検証結果発表は日本自ら韓日間の外交が成立する基盤を否定する形になるからだ。日本は河野談話の検証結果が韓日両国の外交関係を後戻りできない破局に追い込む危険性があるという事実を忘れてはならない。この結果、韓米日3カ国による安全保障体制まで崩壊する結果を招いてしまえば、その責任は全面的に安倍内閣にある。
もうこれは脅迫である。竹島問題でもそうだ。わが国政府は国際司法裁判所で解決しようと持ちかけているようだけど、韓国政府はそれに応じない。韓国人が盗難した文化財の返還問題然り、日本海呼称問題、伊藤博文テロリストの顕彰、日韓基本条約を無視する戦時徴用工個人の賠償請求権判決、他国における我が国に対する誹謗中傷、再三の呼びかけにも応じない首脳会談の拒否と外交的侮辱、徹底した反日教育...
はっきり言って事実上、日韓の政府間の外交は断絶している。政府は、河野談話の検証を公表した後、いわゆる従軍慰安婦問題についての検証を始めるべきである。北朝鮮による拉致問題のごとく、筋を曲げることなく真実を求め、国家として筋を通していくべきである。日本という国は、正義を重んじ、決して理不尽なことには屈しない、さすがの国であるべきだ。
そういえば、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本は人種的差別撤廃を主張したっけ。
当時、この提案は日本を含んだ海外でも報道され、様々な反響を呼んだ。西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人やアイルランド人などから感謝の言葉を受けた。米国内からも、全米黒人地位向上協会(NAACP)が感謝のコメントを発表している。しかし、1919年(大正8年)4月11日夜の国際連盟委員会最終会合において、議長を務めたウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領等によって、この提案は葬られてしまった。その後、国連総会がこの問題について、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」の名で採択したのは、1965年12月のことであった。
蛇足ではあるが、その前年の1964年に南アのネルソン・マンデラは、アパルトヘイト政策を採る白人政府によって、国家反逆罪で終身刑の判決を受けている。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放され、翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラーク(白人大統領)と共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国大統領に就任。まだまだ、いろんなところで人種差別撤廃の戦いは起こっているのだ。
Posted by ecell at 18:19│Comments(0)
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