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2010年09月24日
朱槍の尼法師
先に、秀吉の紀州太田城水攻めの際、果敢に抵抗した一人の女性がいたことを書いた。この女性の名前を知ることが出来たので、記しておく。
雑賀衆の終焉~秀吉の太田攻め~
以下は引用です。
3月26日夜より十六万九千二百人もの人夫を駆り集めて築堤工事を始め、4月1日から水を流し込んだという。このときも28・29日には大雨が降ってあたり一面が海のようになったということなので、秀吉にはよほど強運がついて回ったのであろう。そして4月2日、ちょっとしたハプニングがあった。
城中から朱柄の槍を持って一人の武者が船で漕ぎ出し、秀吉方の佐藤勢に単独で突きかかり、縦横無尽に暴れ回った者が居た。この人物、朝比奈摩仙名(ませんな)という尼法師、つまり女性だったのである。残念ながら彼女は田中久兵衛に生け捕られて秀吉の前に連れて行かれるのだが、秀吉は感心して彼女を許し、城に帰らせたとある。
このお話の出典は「根来焼討太田責細記」のようである。
鉄炮と紀州の傭兵集団
田中久兵衛吉政:秀吉配下で立身し、関ヶ原の功により筑後柳川三二万石の大大名となった。田中吉政、当時37歳ぐらいか。
雑賀衆の終焉~秀吉の太田攻め~
以下は引用です。
3月26日夜より十六万九千二百人もの人夫を駆り集めて築堤工事を始め、4月1日から水を流し込んだという。このときも28・29日には大雨が降ってあたり一面が海のようになったということなので、秀吉にはよほど強運がついて回ったのであろう。そして4月2日、ちょっとしたハプニングがあった。
城中から朱柄の槍を持って一人の武者が船で漕ぎ出し、秀吉方の佐藤勢に単独で突きかかり、縦横無尽に暴れ回った者が居た。この人物、朝比奈摩仙名(ませんな)という尼法師、つまり女性だったのである。残念ながら彼女は田中久兵衛に生け捕られて秀吉の前に連れて行かれるのだが、秀吉は感心して彼女を許し、城に帰らせたとある。
このお話の出典は「根来焼討太田責細記」のようである。
鉄炮と紀州の傭兵集団
田中久兵衛吉政:秀吉配下で立身し、関ヶ原の功により筑後柳川三二万石の大大名となった。田中吉政、当時37歳ぐらいか。
Posted by ecell at 07:22│Comments(0)
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