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2012年08月02日
教育とは何か
教師とは何か、いじめとは何かと同様、さまざまな見解がある。わたしは、薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育の訓戒がその本質を教えていると思う。
郷中(ごじゅう)教育の訓戒、即ちルール、掟(おきて)は単純明快。
自分にまけるな、嘘はつくな、弱いものをいじめるな。この三つだけ。
克己、正直、最後の「弱いものをいじめるな」は、勇気あるいは侠気とも言えるか。西郷隆盛など薩摩藩の連中は、その訓戒に従い己を鍛えた。
それ故、西洋の強国英国がアヘン戦争などで清国を虐め、アジアを侵略しようとすることを激しく憎み対抗しようとした。とうとう、1863年8月15日薩摩藩は、錦江湾で七隻のイギリス艦隊相手に攘夷を決行、薩英戦争を起す。善戦したものの攘夷実行がいかに愚策であるかを自ずと悟るほど、その被害は大きかった。
わたしたちの国は、かって第一次世界大戦後のパリ講和会議において、人種的差別の撤廃を提案した。1919年2月13日、日本は国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した最初の国であった。植民地諸国によって葬られたこの条約案。このことは日本人に大きな傷を残した。世界を支配するものたちの悪意と大国の偽善を知ることになったのだ。
戦国時代、信長はアフリカ出身の黒人を宣教師フロイスから譲ってもらった。弥助と名づけ、手元に置き可愛がった。そして彼の身の上話を聞きただした。東アフリカの部族長の息子であったが、白人たちに父母を殺され兄弟姉妹たちとともに捕らえられた。長い航海で兄や姉は死に、彼は奴隷としてはるか極東アジアに連れてこられた。その過酷な運命は信長の心を撃ったことだろう。
一刻も早く日本を統一し武力を整え、フロイスたちが来た道を逆に攻め上ろうと信長は考えた。マカオ、フィリピン、インド、アフリカそしてヨーロッパ。人間を人間と思わぬ外道を攻め滅ぼそうと考えた(に違いない)。秀吉はこれを継承しようとした。が結局、家康は一国平和主義を選択し国を閉ざしてしまった。そういう歴史をみていくと、わたしは第二次世界大戦は歴史の必然であったかもしれないとさえ思えてくる。
もし、日本が1945年8月15日ではなく、後2年、いや、もう1年頑張っていたならば中東アジアやアフリカの戦後の歴史も随分と変わっていたことだろう。奇しきことに、人種差別撤廃を称えた日本は黒人奴隷によって造られた国アメリカに敗れてしまったのだ。わたしは、当時のわが国の指導者たちに不満があるものの総じてその歴史には大きな間違いはなかったものと信じている。
話が脱線しすぎてしまったが、「弱いものをいじめるな」という精神はわが国の国是ででもあった。そんな思いを伝えたかった。
郷中(ごじゅう)教育の訓戒、即ちルール、掟(おきて)は単純明快。
自分にまけるな、嘘はつくな、弱いものをいじめるな。この三つだけ。
克己、正直、最後の「弱いものをいじめるな」は、勇気あるいは侠気とも言えるか。西郷隆盛など薩摩藩の連中は、その訓戒に従い己を鍛えた。
それ故、西洋の強国英国がアヘン戦争などで清国を虐め、アジアを侵略しようとすることを激しく憎み対抗しようとした。とうとう、1863年8月15日薩摩藩は、錦江湾で七隻のイギリス艦隊相手に攘夷を決行、薩英戦争を起す。善戦したものの攘夷実行がいかに愚策であるかを自ずと悟るほど、その被害は大きかった。
わたしたちの国は、かって第一次世界大戦後のパリ講和会議において、人種的差別の撤廃を提案した。1919年2月13日、日本は国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した最初の国であった。植民地諸国によって葬られたこの条約案。このことは日本人に大きな傷を残した。世界を支配するものたちの悪意と大国の偽善を知ることになったのだ。
戦国時代、信長はアフリカ出身の黒人を宣教師フロイスから譲ってもらった。弥助と名づけ、手元に置き可愛がった。そして彼の身の上話を聞きただした。東アフリカの部族長の息子であったが、白人たちに父母を殺され兄弟姉妹たちとともに捕らえられた。長い航海で兄や姉は死に、彼は奴隷としてはるか極東アジアに連れてこられた。その過酷な運命は信長の心を撃ったことだろう。
一刻も早く日本を統一し武力を整え、フロイスたちが来た道を逆に攻め上ろうと信長は考えた。マカオ、フィリピン、インド、アフリカそしてヨーロッパ。人間を人間と思わぬ外道を攻め滅ぼそうと考えた(に違いない)。秀吉はこれを継承しようとした。が結局、家康は一国平和主義を選択し国を閉ざしてしまった。そういう歴史をみていくと、わたしは第二次世界大戦は歴史の必然であったかもしれないとさえ思えてくる。
もし、日本が1945年8月15日ではなく、後2年、いや、もう1年頑張っていたならば中東アジアやアフリカの戦後の歴史も随分と変わっていたことだろう。奇しきことに、人種差別撤廃を称えた日本は黒人奴隷によって造られた国アメリカに敗れてしまったのだ。わたしは、当時のわが国の指導者たちに不満があるものの総じてその歴史には大きな間違いはなかったものと信じている。
話が脱線しすぎてしまったが、「弱いものをいじめるな」という精神はわが国の国是ででもあった。そんな思いを伝えたかった。
Posted by ecell at 09:11│Comments(0)
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