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2012年10月11日
中国ネット上で村上春樹絶賛
先月の9月28日、朝日新聞の朝刊に掲載された村上春樹寄稿のエッセーが中国ネット上ですごく評判が良いと聞き読んでみた。
全文掲載サイト 村上春樹:魂の行き来する道筋
尖閣諸島を巡る紛争が過激化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。こういう書き出しで始まる彼のエッセイは、大体次のことを言っていると思う。
ここ20年の東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。
その「文化圏」では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
こう書いた後、このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできたが、領土問題が大きく破壊してしまうことを恐れていると。
そのうえで、領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている、と戒めている。
そして最後のほうで、僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国国内の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものになるだろう、と書いている。
以上、要約になっていない。偉大な文学者のエッセイを要約するなど大それたことで、作家の文章を味わいたい方は、是非原文を読んでください。
一読後、最初に思ったのは当たり前のことが書かれているということ。そして、引っかかったのは次の文章だ。
何を言っているのだろうか。我々が、わが国が中国のように他国の文学書(翻訳本)を書店から引き揚げるようなことをするとでもほんとうに思っているのだろうか。国民は、憲法で表現の自由を保証され、書籍発行前の事前検閲さえできない。司法においても名誉毀損等を理由とする事前の差止めは厳格に判断している。わが国においては、中国がしたようなことはできないし、ありえない。国家、国民の成熟度も違う。
中国国内では、ノーベル平和賞を受賞した作家たちの書籍を発禁処分にしているではないか。かってソ連では、アレクサンドル・ソルジェニーツィン氏の作品「収容所列島」を始め多くの書籍を禁断の書とし、国外追放したではないか。
わたしは、日本の作家が先頭に立ち、世界の作家に呼びかけ、このような中国の作品発表の自由抑圧を無くすための努力をすべきではないのか、と思っている。
政治、外交、国家の面子のため中国や韓国との文化交流が閉ざされてはならない。当たり前のことだ。しかし、閉ざしているのはどちらのほうか。その実態は、国内においても、対外国においても、自分たち支配者の意に反するもの(書籍を含む)を排外しているのは、中国ではないのか。わが国では断じてない。
「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。
この文章は、領土問題のため我々が中国の文化に対し敬意を払わないという動きがあることを指しているのか。わたしはわが国ではそのようなことは無いと思っている。
このエッセイが中国のネットでは好評判であることはうれしいことであるが、わが国では、「文化の交流、交換を政治によって閉ざすな」と言うべき相手は、日本ではなく、中国ではないのか、という声がある。そのとおりだ。
それに対して、村上春樹ほどの大作家が書いたエッセイだから、すぐに中国語に翻訳される、というのはごまかしだと思う。何故、中国にはっきりと言わない、言えないのだろうか。表現の自由は、あなたたちの国には無いのですかと。
全文掲載サイト 村上春樹:魂の行き来する道筋
尖閣諸島を巡る紛争が過激化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。こういう書き出しで始まる彼のエッセイは、大体次のことを言っていると思う。
ここ20年の東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。
その「文化圏」では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
こう書いた後、このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできたが、領土問題が大きく破壊してしまうことを恐れていると。
そのうえで、領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている、と戒めている。
そして最後のほうで、僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国国内の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものになるだろう、と書いている。
以上、要約になっていない。偉大な文学者のエッセイを要約するなど大それたことで、作家の文章を味わいたい方は、是非原文を読んでください。
一読後、最初に思ったのは当たり前のことが書かれているということ。そして、引っかかったのは次の文章だ。
中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについては、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国国内の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。
何を言っているのだろうか。我々が、わが国が中国のように他国の文学書(翻訳本)を書店から引き揚げるようなことをするとでもほんとうに思っているのだろうか。国民は、憲法で表現の自由を保証され、書籍発行前の事前検閲さえできない。司法においても名誉毀損等を理由とする事前の差止めは厳格に判断している。わが国においては、中国がしたようなことはできないし、ありえない。国家、国民の成熟度も違う。
中国国内では、ノーベル平和賞を受賞した作家たちの書籍を発禁処分にしているではないか。かってソ連では、アレクサンドル・ソルジェニーツィン氏の作品「収容所列島」を始め多くの書籍を禁断の書とし、国外追放したではないか。
わたしは、日本の作家が先頭に立ち、世界の作家に呼びかけ、このような中国の作品発表の自由抑圧を無くすための努力をすべきではないのか、と思っている。
政治、外交、国家の面子のため中国や韓国との文化交流が閉ざされてはならない。当たり前のことだ。しかし、閉ざしているのはどちらのほうか。その実態は、国内においても、対外国においても、自分たち支配者の意に反するもの(書籍を含む)を排外しているのは、中国ではないのか。わが国では断じてない。
「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。
この文章は、領土問題のため我々が中国の文化に対し敬意を払わないという動きがあることを指しているのか。わたしはわが国ではそのようなことは無いと思っている。
このエッセイが中国のネットでは好評判であることはうれしいことであるが、わが国では、「文化の交流、交換を政治によって閉ざすな」と言うべき相手は、日本ではなく、中国ではないのか、という声がある。そのとおりだ。
それに対して、村上春樹ほどの大作家が書いたエッセイだから、すぐに中国語に翻訳される、というのはごまかしだと思う。何故、中国にはっきりと言わない、言えないのだろうか。表現の自由は、あなたたちの国には無いのですかと。
Posted by ecell at 08:05│Comments(0)
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